【マシンガン打線】石井琢朗選手の年俸推移や結婚相手や娘、脳梗塞の病気?指導者エピソードまとめ

マシンガン打線のハマの切り込み隊長として名が知れている石井琢朗選手。
横浜DeNAベイスターズ現在のコーチとして引っ張るレジェンド石井琢朗コーチについて、
年俸推移や結婚相手と娘の情報、脳梗塞の病気、指導者としてのエピソードとしてまとめました。

石井琢朗氏は、プレイヤーとしても2000本安打を達成するレジェンド。コーチとしても実績が評価されています。
石井琢朗コーチの魅力や人気の秘密に迫っていきましょう。

石井琢朗のプロ入り前

今の若いファンにはあまり知られていないと思いますが、石井琢朗選手は投手として大洋(現横浜DeNA)ドラフト外にて入団しました。

一年目にして10月登板で初勝利を上げて桑田の再来とも評価を得ていましたが、本人も打者として専念したい思いもあり、打者に転向。首脳陣としても打者としての素質を見抜いていたみたいです。

1992年に内野手への転向を決意。これは石井にとって未知の領域への挑戦であり、初期にはフィールディングのエラーや打撃の粗さが課題となりました。

しかし、石井琢朗選手はこの困難を乗り越え、高木由一、岩井隆之、弘田澄男のコーチからの徹底的な指導を受け、自らのスキルを磨き上げました。

この野手への転向は、彼の野球キャリアにおいて重要な転換点となりました。彼は驚異的な速さで成長を遂げ、リーグを代表する遊撃手としての地位を確立しました。

もしも石井琢朗選手が打者になっていなかったら横浜ベイスターズの優勝はなかったと言えるかも知れません。

石井琢朗の一流選手への飛躍と悲願の優勝

4年目からレギュラーを勝ち取った石井琢朗選手。三拍子揃った名選手として地位を確立していきました。野球ファンであれば誰もが知っている一流選手になっていきます。

 

石井琢朗の年俸推移まとめ

石井琢朗選手は、高卒ルーキーということもあり、最初の3年間は特に芽が出ず、実際にレギュラーとして活躍したのは4年目からです。

石井琢朗選手は10年目で1億円超え。90年台の年棒平均を考えるとかなり高い年棒になっており、球界でも最も稼いでいた選手TOP10と言っても過言ではないのではないでしょうか。

年数 出場試合 打率 本塁打 打点 OPS 年棒
1989年 17 0.4 0 0 0.8 360万円
1990年 2 0 0 0 0 480万円
1991年 10 0.5 0 0 1 460万円
1992年 69 0.269 3 23 0.664 520万円
1993年 121 0.266 5 36 0.712 1120万円
1994年 130 0.251 3 40 0.676 3000万円
1995年 124 0.309 2 41 0.789 4000万円
1996年 129 0.282 1 26 0.722 8000万円
1997年 132 0.319 10 44 0.815 8500万円
1998年 135 0.314 7 48 0.82 1億3000万円
1999年 131 0.292 8 58 0.775 1億7000万円
2000年 134 0.302 10 50 0.785 1億7000万円
2001年 140 0.295 8 36 0.768 2億5000万円
2002年 140 0.274 8 49 0.709 2億5000万円
2003年 115 0.231 6 26 0.618 2億5000万円
2004年 131 0.295 10 43 0.773 2億円
2005年 146 0.255 8 40 0.666 2億円
2006年 146 0.288 6 32 0.724 1億7000万円
2007年 108 0.275 2 13 0.644 1億7500万円
2008年 98 0.262 2 18 0.635 1億2500万円
2009年 89 0.227 2 18 0.638 2000万円
2010年 74 0.318 0 20 0.734 2500万円
2011年 61 0.25 1 4 0.685 2700万円
2012年 31 0.167 0 2 0.446 2000万円

2000年の時に2億円を突破しているのは当時では考えられないくらい高額です。
他の球団含めて数人しかいなかったので、まさに球界を代表するレジェンドプレイヤーでした。

石井琢朗氏広島移籍の真実

2008年オフに横浜ファンに衝撃が走りました。石井琢朗選手が広島に移籍することになったのです。

マシンガン打線で優勝したレジェンドが他球団に移籍することになり、衝撃を受けました。

真実としては、怪我の手術でパフォーマンスが落ちていたところで出場機会が激減。球団からの引退勧告もありましたが、現役にこだわっていた石井琢朗氏は他球団に活動機会を求めます。

全盛期のようにはいかないものの、広島移籍後も好成績を残します。2012年には選手兼コーチとなり、シーズン終了後には引退を発表しました。

横浜ファンとしてはコーチも横浜でしてほしいと思っていましたが、コーチとしてのキャリアは広島から始まることになります。

石井琢朗氏のコーチ

石井琢朗は、彼の豊かな野球経験を生かして、現在は横浜DeNAのコーチとして後進の指導にあたっています。

石井琢朗は広島東洋カープ、東京ヤクルトスワローズ、読売ジャイアンツ、横浜DeNAベイスターズでコーチを務め、多くの選手に影響を与えてきました​​。

石井のコーチングスタイルは、彼自身の経験から学んだ「心の伸びしろ」の重要性に基づいています。

彼の指導では、技術的なスキルの向上はもちろん、選手たちの精神的な成長にも重点を置いています。彼は選手たちに、技術だけでなく、人生の教訓や精神的な強さを身につけることの大切さを伝えています。

これは、彼が現役時代に学んだ価値ある教訓を反映したもので、彼の指導に対する深い洞察力と人間性を示していまするのではないでしょうか。

石井琢朗のコーチはズバズバという性格ですが、選手を守る男気があるのでこれだけ球団問わずコーチとしての需要があるのではないでしょうか。また、三浦大輔監督の後任としてファンからも望む声が多いように見受けられます。

石井琢朗の家族と娘は?

1996年にアイドル歌手の瀬能あづさと結婚したが、2000年に離婚。2001年8月にフジテレビアナウンサーである荒瀬詩織と再婚しました。

2002年7月に長女、2005年8月に二女、2013年7月に長男が誕生しましたが、広島時代は単身赴任状態であったと述べており、寂しい思いをしたみたいです

石井琢朗選手の次女はテニスプレイヤー

石井琢朗選手の次女石井さやか氏はテニスプレイヤーとしても有名です。

石井琢朗選手の身体的な強さを遺伝として引き継いでいるところもあるのでしょう。石井さやか氏を横浜ファンとしても応援していこうと思います。

石井琢朗の病気は脳梗塞?

石井琢朗氏は、2022年シーズン中に体調不良を訴えて病院に行ったところ、左小脳梗塞により入院し、その後回復して退院しました。

脳梗塞というと大病だと思いますが、石井琢朗氏は処置が早かったこともあり、意識があり会話もできる状態であると報告しています​​​​。

石井氏の体調についての詳細な情報は発表されていませんが、コーチとして元気にやっていることから今の所問題がないみたいです

 

石井琢朗コーチまとめ

横浜のレジェンドである石井琢朗氏の情報をまとめました。三浦大輔監督の後任として筆頭である石井琢朗氏はプレイヤーとしても一流。コーチとしても優勝へと導いてほしいと思います。

最後まで記事を読んでいただきありがとうございました。

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